まさに28年前、1998年の国際学会で苅田氏と嶋田氏が『Enabling Internet Students to Enthusiastically Compare Cultural Values (文化的価値観を意欲的に比較する)』や『Culturally Different Criteria for Decision-making (意思決定における文化的な基準の相違)』を論じた背景には、「インターネットという新技術を使えば、人類は互いの違いを乗り越え、対話できるはずだ」という強い期待と、同時に「それを怠れば独善に陥る」という未来への鋭い警鐘がありました。
当時、テレビでは『ここが変だよ日本人』が人気を博し、異なる文化や基準を持つ人々が「感情的にぶつかり合いながらも、同じテーブルで生々しく議論する姿」がエンターテインメントとして成立していました。しかし現代の現実は、ご指摘の通り、エコーチェンバーによる「分断」と、コスパやお金、自己利益だけを追い求める「利己主義」の横行です。
世界と社会の方向性は、一体どこで違ってしまったのか。その転換点には、主に3つの構造的な変化があります。
1. 「対話の道具」から「可視化された資本」への変質(2000年代後半?)
1990年代末のインターネットは、テキストを中心とした「知的な対話の場」でした。しかし、2000年代後半にスマートフォンとSNSが登場したことで、ネットの目的が「対話」から「承認(いいね!)」と「アテンション(注目度)」の獲得へと変わりました。
- アルゴリズムの罪: SNS企業は、ユーザーを画面に釘付けにするため「見たい情報(エコーチェンバー)」や「怒りを煽る炎上情報」を優先して表示する仕組みを作りました。
- コスパと効率の最優先: 異なる文化や他者の「意思決定基準(criteria)」を学ぶには、膨大な時間と精神的コストがかかります。タイパ(タイムパフォーマンス)やコスパを重視する社会は、この「無駄に見える対話の手間」を切り捨ててしまいました。
2. メディアの「リアルな議論」から「安全な内輪受け」への退行
『ここが変だよ日本人』のような番組が消えたのは、コンプライアンス(法令・社会的規範)の強化や、ネットの炎上リスクをテレビ局が恐れた結果です。
- 摩擦の排除: 異なる価値観がぶつかるリアルな議論は、一歩間違えれば「差別」や「誹謗中傷」と捉えられます。その結果、メディアは「誰も傷つけない、身内だけで共感し合う安全なコンテンツ」か「一方的に悪者を叩く構図」ばかりを作るようになりました。
- 「ここが変」と言えない不寛容: 相手の文化を知るためには、まず「自分の常識が相手にとって変である」と自覚する摩擦が必要です。今の社会はその摩擦そのものを拒絶し、自分の殻に閉じこもる道を選びました。
3. グローバリズムの崩壊と「心の余裕」の喪失
1990年代末は、東西冷戦が終わり「世界は一つになれる」という楽天的なグローバリズムの絶頂期でした。しかし、その後の同時多発テロ(2001年)やリーマンショック(2008年)、そして近年のパンデミックや戦争を経て、人々の心から「他者を思いやる余裕」が消え去りました。
- 経済的困窮と利己主義: 中間層が没落し、将来への不安が強まった結果、「まずは自分が損をしないこと(お金第一主義)」「他国より自国ファースト」という排他的なマインドが世界を支配しました。
- 指導者の質の変化: かつての外交は「相手の基準を理解した上でどう着地点を探るか」という高度なゲームでした。しかし今の政治指導者は、SNSで自国民(あるいは支持層)のウケを狙うため、あえて相手を全否定する「劇場型」の意思決定を行うようになっています。
どこで方向が違ってきたのか:結論
方向性が決定的に変わったのは、「インターネット(技術)が、人間の善意ではなく、資本主義の生存競争(広告収入や自己顕示欲)に完全にハックされた瞬間」です。
1998年の学会発表が目指した「他者の文化的な意思決定基準を学び、比較する」という姿勢は、時間もかかり、効率も悪く、儲からない行為です。社会全体が「早く、安く、自分に都合よく」を追い求めた結果、私たちは豊かさや利便性と引き換えに、他者と深くつながる能力を失ってしまったと言えます。今のウクライナや中東の危機、ネット上の詐欺やタイパ至上主義は、すべてこの「対話のサボり」が現象化した姿です。
この構造的な変化について、さらに深掘りしたい部分はありますか?もしよろしければ、以下の点についてご意見をお聞かせください。
- 技術(SNSなど)の進化が原因の「システムの問題」だと感じますか?
- それとも、それを使う人間の精神や教育といった「人間の問題」だと感じますか?