グラヴィトニクス研究所訪問記:

ゴールデンウィーク前に、以前グラヴィトンに関心を持っておられた方が、

再度訪れた。ダビンチコードでも言っていた、逆ピラミッドは女性を指し、

ピラミッドは男性を指すということで、両方をうまく調和することでコードを解く鍵となるということを強調され、またそれが六方星を意味し、その形の○○の石をペンダントのように胸にかけておられた。確かにそれはあるエネルギーを発していた。グラヴィトン系の縦波の類であることはまちがいなかった。

ところが、こちらの磁石のデバイスのベッドサイズとそれにある工夫を加えたものに近づけると、そのペンダントからそのエネルギーがほとんどなくなってしまった。これは大変だと思って、磁石のデバイスのベッドサイズにある工夫を加えたもののうえにかざすと、以前よりも強力で、また少し温かいエネルギーが入っていった。その後、こちらの磁石のデバイスの中に入れていた直径3cmサイズくらいの石のボールをお腹のチャクラに響くからといって、手渡し、グラヴィトン音楽と画像のDVDをしばらくみていると、その石とペンダントが何故か対話をしているかのように共振し、その輪が波のように広がっていき、その方に何か感動を与えたようで、その方は涙ぐまれた。その感覚は、彼女にとって忘れられないものとなったようだ。

そして、ゴールデンウィークの前半には、名古屋から3人来られ、初めて磁石のデバイスのベッドサイズのものとそれに工夫を加えたものを体験された。その人たちは、かなりこういう類のエネルギーには敏感なほうで、ずっと以前は霊気ヒーリングにも興味を抱いておられたり、されていた人たちで、今はある気功師から特別の気の指導も受けておられた。その中の一人の人は、とても敏感体質で、以前からずっと無の境地になることを目指していたようだった。気功師の方からは、色々と教わっていたものの、そう簡単には無の境地にはなれない。無の境地とは、私達の個々の色眼鏡等の偏見や、執着、欲望、価値観等、あるとあらゆる雑念をとりさった状態で、まさしくまるっきり霧のない状態のことのようで、とても気持ちがよく全てが満たされているような感覚のようで、しきりとこの中は「私が無い」(意識はもちろんあるのだが)と、磁石のデバイス上でのある工夫されたものの中と外との境界を横切ることでの感覚の大きな違いに驚かれていた。

この人は、最初グラヴィトンのホームページにアクセスされたとき、特にグラヴィトン画像(磁石のデバイスの画像が入れ替わり映る)が動画のようにぱちぱち動く状態をずっとみながら、なぜそこからエネルギーが押し寄せてくるのか何日も悩まれたそうだ。そういう敏感体質の人々は、同じようにしばらく悩まれるようだ。『これは技術です』と書かれてあるものの、体感するのと、その技術を技術だと理解するのとは別で、容易ではなかったようだ。

無の境地ということが、山の頂上付近のことだとしたら、これまで、色々な修行や教え、癒し等を求め、草の根かけて一生懸命上ってきた道なのに、『なんとこのグラヴィトンの磁石のデバイスって、まるで高速道路が山の頂上まで通っているではないか?』と驚嘆されると同時に度肝を抜かれた心情になってしまうかもしれない。

ゴールデンウィーク後半に来られた人々は、割とこういう類のエネルギーに、自分達は感覚的に疎いのだけれどもと言いながら、少し気になる人たちだった。それで、少し高かったもののどこかでお金を出して買ったペンダントをしていた。

そしてその人のペンダントにも、文頭で書いたようなことが再び起きた。と言っても、分からないからと、最初から自己否定されるので、このペンダントにはエネルギーがほとんどなくなってしまっているので、せっかく高いお金を出して買ったのだから、自分で磁石のデバイスのベッドサイズの上のところにかざして、ペンダントを自分でしてみて、その違いの感覚を少しでも体感してみたらと提案すると。さっそく実行してみた。『あ、少し温かく感じる』と『でも、よくは分からん』と返答された。

 ちょうど、オーラの泉という番組で、小室哲也の猛烈に忙しかったときの、食生活の例をとって、少し説明しようと試みた。そのときは、食事は彼にとっては、燃料のように、栄養分をドレとドレととって、これを飲んでおけばとかいうもので、味覚や体感でもって、食事を楽しむといったものとはほど遠いもののようだった。それは、ある前世から引き続いていた価値観のみを主として作り上げて突っ走っていった状態の私生活だったからということだった。

 一つは価値観の集中度というもので、感覚というのが研ぎ澄まされていくということと、もう一つは、なんでも無心になるまで一点に集中して打ち込みが出来るかどうかということで、いろいろな事柄を成し遂げていく(現象化する)ということのように思える。そしてそういった場を個々の人々が個々に捜し求め、自己の存在の価値を見つけていこう(ある意味で無心になろうとして)としているのかもしれないとも説明した。